2010/02/09
旧山陰本線トンネル・鉄橋群の調査を行いました(その1)
昨日(2月8日)は、嵯峨野トロッコ列車としておなじみの旧山陰本線のトンネル・鉄橋群の調査を行いました。鉄道黎明期の貴重な産業遺産として残る保津峡の数々の鉄橋やトンネルの現状や、線路敷からみた保津峡の環境を歩いて見てみよう、という今回の調査。普段は歩くことのできない線路を歩く、ということで、鉄道好きな私は非常に楽しみにしていたのでした。
今回の調査は、私たちプロジェクト保津川が呼び掛け、嵯峨野観光鉄道、JR西日本のご厚意により実現したものです。調査には、亀岡市教育委員会や亀岡市文化資料館、南丹市文化博物館、保津川の世界遺産登録をめざす会、保津川遊船企業組合、亀岡市篠町自治会、京筏組などから合計36人もの方が参加くださいました。
朝8時半にトロッコ亀岡駅に集合した一行は、簡単な説明のあと、さっそく線路敷を歩いて出発しました。普段は立ち入り禁止となっている線路敷、みんなワクワクしながら歩きます。
雪の残る峡谷に入ると、空気も一層ひんやりとして川の音だけがこだましています。でも、100年以上も前に建設された鉄路は、決して廃線などではなく、現役の、生きた鉄路という感じがします。
1月から3月の間は、トロッコ列車は保線作業が集中的に行われることもあり、運休しています。そのため、今回の調査が可能になったのですが、線路をはじめ、信号やケーブルも綺麗に整備されていて、現役の線路らしく、油の匂いもしてきます。そういう一つ一つが「現役」の線路の、息吹のようなものを感じさせてくれるのでしょうね。
この旧山陰本線は、明治32年(1899)に京都鉄道の手によって開通しました。軍港である京都の北部、舞鶴をめざして建設された京都鉄道ですが、この保津峡工区があまりの難工事であったために資金が底をつき、やがては国有化されることとなります。
今のような大型機械もなかったころ、人の手によって作られたであろう切り通しや、立派な石垣は、列車に乗っていれば気付かないようなものですが、こうして歩いてみると一つ一つが歴史を感じさせてくれるものです。
今回の調査には、京都府文化財保護課の吉田理さんに講師としてお越しいただき、トンネルや鉄橋の解説をお願いしました。ちなみに、当時のレンガ製トンネルはイギリス式のレンガ積みのものが多いそうですが、保津峡のトンネル群の中には珍しいフランス積みのものもみられます。ちなみにこのトンネルは一般的なイギリス式のレンガ積み、非常に合理的で強度的にも優れた、当時の最先端技術だそうです。
トンネルだけではなく、鉄橋の橋脚にもレンガ積みのものがたくさん残っています。線路際の小屋もレトロなムード満点。明治の面影が至る所に残っています。
ときどき後ろを振り返ってみても、本当に綺麗な風景です。ほんの20年ほど前までは、貨物列車から東京と山陰を結ぶ寝台特急まで、日夜たくさんの列車が行き来していた「本線」です。私も毎日ここを通学していましたが、今にも向こうから汽笛を鳴らして列車がやってきそうな錯覚がします。
さて、本日の目玉?の一つ、初代鵜飼第1隧道の見学です。
山陰本線の前身である京都鉄道は、先にも説明したように明治32年8月に嵯峨(現・嵯峨嵐山)~園部間を開業させました。このうち、嵯峨~馬堀間は保津峡に沿った曲がりくねった線形だったため、昭和50年代後半から始まった京都~園部間の複線・電化事業に伴って、平成元年3月に長大トンネルと橋梁を多用した新線に変更されました。
そのとき、付け替えによって生じた旧線約8km(うちトンネル8ヶ所)は、2年後の平成3年4月に嵯峨野観光鉄道(嵯峨野トロッコ列車)として復活したので、いわば「廃線」は生まれなかったのでが、旧線のトンネル8ヶ所の内、現在の保津峡駅近くにある鵜飼第1隧道だけは、それよりもずっと昔、昭和3年に曲線改良のため新トンネルが建設された際に、廃隧道となり、そのまま現在に至っています。
今回の調査で、唯一、線路の引かれていない、本当の「廃トンネル」。ちなみにこの先は、現在の保津峡駅建設の際に入り口がふさがれてしまい、通り抜けることはできません。京都方向に向かってゆるやかな下りになっていることもあり、途中からは大きな水たまりもあって、これ以上進むことはできませんが、いったいこの先はどんな風になっているのでしょうね?
途中のトロッコ保津峡駅で、トロッコ列車の長谷川社長も合流されました。長谷川さんにはプロジェクト保津川設立当初から大変お世話になっていて、今回も海外から帰ってこられてすぐという忙しいスケジュールの中かけつけてくださいました。
トロッコ保津峡駅を出て、清滝トンネルの中を進みます。トンネルの天井は、蒸気機関車の煤で真っ黒になっています。年配のみなさんは、昔の蒸気機関車の思い出話に花が咲いていました。私が生まれる少し前に蒸気機関車はなくなりましたが、トンネルのたびに窓を急いで閉めたり、なんて話は両親からよく聞かされたものです。
清滝トンネルの先に、保津川にかかる唯一の鉄橋「保津川橋梁」が見えてきました。
この清滝トンネルの京都側入り口は、この保津峡のトンネル群の中でも一番の装飾が施されています。堂々としたトンネルポータル、なぜこのトンネルだけ、このように美しい装飾が施されたのでしょう。
このトンネルの直前の保津川橋梁までは保津川の左岸側を走っていた列車が、保津川にかかる鉄橋を渡って今度は右岸側を走ります。現在のトロッコ列車も、この保津川橋梁の上でいったん停止するほど、もっとも車窓の美しいこの場所だからこそ、トンネルもちょっとおめかししたのでしょうか。
トンネルの上部には「清瀧」と書かれた題額が掲げられています。その文字は、近衛文麿の父で貴族院侯爵などを務めた近衛徳麿によるもの、彼は京都鉄道の設立にも尽力した人物です。京都を代表する景勝地のひとつでもある清滝の名前を冠したこのトンネルに、当時の鉄道建設にかけた人々の想いが込められているように感じました。
その清滝トンネルの前で、全員で記念撮影です。
今回の調査には、はるばる愛知からのお客さまもいらっしゃいました。国鉄旧中央本線のトンネル群の再生に取り組まれている、NPO法人愛岐トンネル群保存再生委員会のみなさんです。私たちプロジェクト保津川と同じくトヨタ財団の助成を受けられていて、早朝、愛知を出発してかけつけてくださいました。
愛知県のJR中央本線高蔵寺駅と岐阜県の多治見駅間の、約8kmの間に、明治33年から昭和41年まで使われていた、13 箇所ものトンネル群を擁する廃線跡が残っています。40年以上放置され、草木に覆われていたこの廃線跡を市民の手で保存し、活用していく取り組みを進められています。
春と秋には見学会も開催されるなど、活発な取り組みを行われているのですが、なんと昨秋にはたった3日間で15,000人ものお客さんでにぎわったそうです!
営業線である旧山陰本線でもまったく同じことを、というわけにはいきませんが、保津峡のいろいろな楽しみ方をこれから実現できれば、と夢は膨らみます!
(後編につづく)