2009/05/15
筏の「カン」を60年ぶりに製作しました!
筏の組み立てに欠かせない「カン」と呼ばれる金具。その「カン」が亀岡の鍛冶屋さんで60年ぶりに作られました。
昨年、亀岡市内の保津川で60年ぶりに復活した保津川の筏流し。今年はさらに規模を拡大して、筏流しの復活に向けた取り組みを進めていきます。将来の12連のフルサイズの筏の再現などを考えると、材木だけではなく実はさまざまな部品の調達も大きな課題としてありました。
そんな部品の一つが「カン」と呼ばれる、ふじ蔓で筏を連結する際に使う金具です。一昨年、昨年の筏の製作では、元筏師のお2人から提供していただいた、昔実際に使われていたカンをお借りしていましたが、それだけでは12連の筏を組み上げるのにはとうてい足りません。
そんな中、いろいろと筏にまつわるお話を調べていたところ、かつてはお父様が筏流しの「親方」をしていた、というプロジェクト保津川の会員の方から、亀岡の京町の鍛冶屋さんで作ってうちに納めてたよ、というお話を伺いました。そこで、その鍛冶屋さんにカンを作ってもらおう!ということになったのです。
亀山城の城下町のひとつ、京町のなかほどにある「片井鉄工所」が、その鍛冶屋さんです。いつも前を通ってはいましたが、まさかここが鍛冶屋さんだとは思ってもいませんでした。なんでも、今、京都府下に残っているいわゆる「鍛冶屋さん」は、ここと福知山のたった2軒だけになってしまったそうです。筏を組んだり、流したりする技術だけではなく、その筏を支えてきた技術もまさに風前の灯、これは何としても記録に残したいなぁ、とも思っていました。
仕事場に座っていろいろお話しされているのが、片井操さん(79)。子供のころからお父さんについて仕事を覚え、この道60年以上のベテラン職人さんです。かつては筏のに使うカンも、一度に何百個という注文が入ったそうです。他にも鍬やツルハシなど、農具の修理なども手掛ける、まさに日本の鍛冶屋さん。
今回はご挨拶もかねての見学、ということで、実際に火入れを見せていただき、ためしにカンも3つだけ作っていただきました。
最初は松炭をいこらせて火床を作ります。家庭用の備長炭などは堅炭、といって、鍛冶場の火床には柔らかい松の炭のほうが適しているそうです。ある程度いこってきたらコークスをくべていきます。子供のころは、朝5時からこの火床を作るのが毎日の仕事だったとか。鍛冶屋さんの仕事は、農繁期の直前などの忙しい時期は、朝の5時からよるの10時まで、まさに「村の鍛冶屋」の歌ではありませんが「しばしも休まず」という毎日だったそうです。
カンに使う鉄製の細い棒が火の中にくべられます。しばらくこのまま置いておいて、鉄がまっかに溶けだすのを待ちます。時折、パチパチと火の粉が飛ぶのですが、その火の粉の量で鉄の熱し加減が分かるのだそうです。ちょうどいい温度、というのはほんの2~3秒しかないそうで、その間は喋らんといてな、とおっしゃっていました。
さあ、いよいよカンの製作が始まります。「50年ぶり以上やから、覚えとるかなぁ~」と言いながらも、すぐにリズムよく真っ赤な鉄を叩き初められて、あっというまにカンの先端が出来上がってきます。カンの先は、材木に突き刺すため、釘のように尖っているのですが、その形は削るのではなく、こうして叩き出しで形作られていたものなんですね。ちょっとした驚きでした。
そして、もう一端の形を整えたら、そのあとは真ん中をU字型に曲げていきます。「素手で持てたら簡単なんやけど、そんなわけにいかんからなあ(笑)」と言いながらも、鍛冶屋はし、と呼ばれるプライヤーを長くしたような工具で器用にカンを掴みながら、だんだんと形が出来上がっていきます。
最後に金床(かなとこ)と呼ばれる台座の端を使って形を微調整。ちなみにこの金床の下には大きな木の臼が埋められていて、音や振動を吸収しているそうです。真っ赤な鉄を槌で叩くわけですから、火の粉が飛んでくることもしばしばですが、それは叩きながら避けるしかないそうです。とはいえ、たまに腕に火の粉が飛んでくることもあります。そんなときは、「ただ辛抱するだけや」、とおっしゃっていました。熱くても、槌を握る右手は滑らないようにいつでも素手だったそうです。
そして、数分後。「どや、こんなもんでええやろ」と、新しいカンが出来上がりました。60年ぶりのカンの製作、始めは「覚えとるかなぁ」とおっしゃっていましたが、昔取った杵柄とはまさにこのこと、体が覚えているのでしょうね、きれいなカンが出来上がりました。
60年前、筏に打ち込まれて保津川を下っていたカンと、今、まさに生まれたばかりのカン。歳の離れすぎた先輩・後輩ですが、これからの保津川の筏復活プロジェクトを担う、大事な「新人」です。
今回は、仕事場の見学や調査も兼ねた試作でした。私たちのそばでは亀岡市文化資料館のスタッフのみなさんがせっせと記録を取られていました。ちょっと覗かせていただいたら、仕事場の見取り図や聞き取りの記録がびっしりとメモされていました。こちらもまた、プロのお仕事です。
火を使うお仕事だけに、職場には神棚と愛宕さんのお札。鍛冶屋さんは、お正月の仕事始めに鉾、鎌、鉤等のミニチュアを作って神棚に供えるそうですが、神棚にそれが写っているのがわかりますか?名前を失念してしまったので、また聞いておかないと・・・。
一仕事終えて、いろいろと昔のことを教えていただきます。実は私も知らなかったのですが、近畿一円の鍛冶屋さんは、ほとんどが和歌山出身だそうです。片井さんのお父さんも、農家の注文が増える3月~5月と8月~10月だけ亀岡にやってきてお仕事をされていたそうです。そういう鍛冶屋さんを「上下鍛冶」というそうで、片井さんが子供のころに、亀岡に定住されるようになったとか。
仕事場の片隅には、亡くなられた片井さんのお父さんの帽子がかけられていました。昔は亀岡だけでも20軒近くの鍛冶屋さんがあって、筏の道具や農具を手掛けられていたそうです。かつて亀岡では稲刈りのあと、二毛作として、麦の栽培が盛んでした。そのため、鍬は今以上に重要な農具で、多い時期には300丁ほどの鍬の修理の注文が秋口にまとまって入ったそうです。
亀岡の鍛冶屋さんの中でも、片井さんのお父さんは腕がよく、近くの農家以外からも仕事を頼まれたそうで、今では高槻市に編入された樫田あたりまででも、子供のころ、自転車で2時間かけて注文を取りにまわったそうです。
出来あがった鍬を返すときはいいのですが、古い鍬を受け取った時は、当然、鍬は土や牛のフンで汚れたままです。そんな鍬を14~15丁ほど自転車に積んで運んだそうです。向こうから、自分んと年の変わらない若い娘さんが歩いてきたときは「恥ずかしいなあ、こんな仕事嫌やなあ、と思ったもんや」とおっしゃっていました。
今では、筏もなくなり、農具の修理を頼む人もお年寄りだけになってしまったそうです。「そりゃ、修理頼んだら2,000円、あと500円出したら、さら買えるもんなあ。持ってきてくれはんのは、年寄りだけや。」と寂しそうにおっしゃっていました。それでも、やっぱり直してほしい、と、親の代から何十年も使っている鍬を持ってこられる方もあるそうです。
槌音が響く昼下がりの城下町。
しばしも止まずに槌打つ響
飛び散る火の花 はしる湯玉
ふいごの風さへ息をもつがず
仕事に精出す村の鍛冶屋(「村の鍛冶屋」 文部省唱歌)
今では、その情景すら思い浮かべることが難しくなった、日本のものづくりの風景。「鉄は熱いうちに打て」「根性を叩き直す」なんて日本語の、本当の姿が自分の住む町で生き続けていることが嬉しくなった一日でした。
(H)