2009/01/22
木造船での曳き舟、60年ぶりに保津川に蘇る!(2)
本日も昨日に引き続き保津川で「曳舟」(ひきぶね)の映像撮影が行われました。
昨日の雨は夜半に止み、薄曇りの中、曳舟の再現が行われました。本日は鵜飼ヶ浜からのスタート、関係者みんなでJR亀岡駅からJR保津峡駅へと向かいます。電車では、昨日のようすが書かれた新聞を見ながら、曳舟談義に花が咲きます。新聞に紹介されたことで関係者一同、気分がやや高揚気味(笑)。昨日の疲れもなんのその、元気に現地へと向かいます。
総勢15人の船頭さんチームでは、みなさんの協議の結果、数少ない曳舟の経験をみんなで共有しようということで、昨日とは曳舟をするメンバーを変更されました。
まず最初は、トロッコ保津峡駅横のの吊り橋からの下り船の撮影。朝もやのかかる中、木造船が下ってきます。
今日も元気に木造船が姿を現しました。保津川で、ここまで脚光を浴びた船もないでしょう。
そして、吊り橋下流で「渡し」の再現。
絶壁の上での曳舟。危険が伴います。そして船頭みんなが船に乗り対岸へ。
かつてはこのように、川が曲がる度に、または、前に絶壁で行く手を阻む度に対岸の曳きやすい場所へ渡っていたそうです。その数、合計12回。「曳く」ことばかりがクローズアップされますが、この「渡り」の作業も重要な行程です。
そして、保津川と清滝川の合流点、「落合」へ。
本日も、多くの関係者が、カメラで木造船を待ち受けます。
ここでも曳舟の撮影。先ほど下ってきたところを、船が上っていきます。
その下流には、人が一人通れるほどしかない曳舟の道、「綱道」。
道がわかりますか?道とは呼べないほどの狭い道を、かつての船頭さんは曳いていたのです。それは一歩間違えれば、死を意味するほど過酷なもの。この綱道に先人の汗と涙がしみ込んでいるのです。
そして、トロッコ列車の鉄橋の下流での曳舟。
ここでは、昨日、増水で獅子ヶ口で再現されなかった「ハナボウ」を使っての曳舟が行われました。
これが「ハナボウ」。
舟を曳くうちに、岸に寄ってくる舟をこのハナボウで押し出すのです。船長が岸に降りることができる急流でこのハナボウは使われたそうです。
ハナボウを使った船頭さんは、舟の中で竿を差すより楽に岸から離れると言ってました。激しい急流ほど活躍したのでしょう。100年前の曳舟の記録映像でも、保津川一番の難関「獅子ヶ口」でこのハナボウが使われていました。
また下流には、「綱の跡」という、曳き綱が岩と擦れてできた切り込みのような跡も残っています。
綱が岩に食い込んでいるのがわかりますか?(画質が不鮮明で申し訳ありません)約340年の曳舟の歴史が岩に刻まれているのです。
次に「地獄橋」へ。
「地獄橋」とは嵐山から保津峡へ向かう途中にあった、岩の割れ目にかけられた小さな橋で、ここから本格的な厳しい曳舟が始まることを象徴して名付けられたとのこと。「この橋の先、地獄行。」、そのように橋に書かれてあるかのように感じられたのかもしれませんね。以前、曳舟の経験者、上田潔さんにお話を伺ったとき、「家に帰ると、全身が熱をもち、疼いた」とおっしゃっていました。まさに地獄のような仕事だったのです。その地獄橋を渡ります。
ここから曳舟の本格的な仕事がはじまったのです。そして曳舟の歴史も・・・。
嵐山で細かい撮影が行われ、全日程が無事終了しました。
昨日と今日と2日間、関係者の皆さん、ご苦労様でした。いい映像が撮れていることでしょう。そして、この模様の上映会を是非やってほしいですね。
是非、この模様を皆さんに見ていただきたい!!
昨日、実際に、先綱の位置で、綱を曳かせていただいたのですが、綱を扱う難しさ、岩場を走る難しさ、そして、一番は伝統技術を再現する難しさでした。
人から人へ絶えることなく引き継がれてこそ「伝統」であり、いかに忠実に再現しても、それは真似ごとであって、直に先人から受け継いできたものではありません。しかし、そういう思いと同時に、真似ごととはいえ、その伝統の一端に触れられたという喜びを感じたのもまた事実です。
綱を曳くうちに息がはずんでいきました。その息遣いの向こうに先人の息遣いが聞こえてくるような・・・。
(K)