2008/12/30
保津川に60年ぶりに曳き舟再現!(後篇)
さて、昼食のあとは、「獅子ヶ口」の急流での曳き舟の再現です。速い流れの急流が長い間続く獅子ヶ口は、また大きくカーブしているため、予想もしなかった大きな力で舟が流されそうになり、とても3人の力だけでは舟を引き上げられないのです!手の空いていた人も急きょ加わって、みんなで一生懸命引き上げます。
そしてまた、舟に残った船頭さんも、岩に舟が当たってしまわないように、棹で必死で船を押し出します。こうしないと、舟が岩に張り付き動かなくなるどころか、横転してしまいかねないのです。かつての木造船には、「目穴」と呼ばれる穴が舳先に設けられていました(写真下の赤丸部分、写真をクリックして拡大してご覧ください)
この目穴は、棹や丸太をこの穴に入れて固定することで、しっかりと舟を押し出すことができるように設けられていました。しかし、トラックで運ぶようになってから作られた現在のFRP船には、この目穴は不要になったため設けられていません。そのため、棹で岩を押すのですが、舟が動いているため、当然ながら棹も指し直さないといけません。そのわずかな瞬間でさえ、舟が流れに押されてすぐに岩に張り付きそうになり、3人がかりでの作業となったわけです。
何百年も前に作られた石張りの上を、必死で綱を引っ張る船頭さん。船の上でありったけの力で棹をさす船頭さん。みんなの息が合わないと上れないということが、傍から見ていてもよくわかります。昔の人はこんな所も4人の力だけで上がっていたのか、と思うと、本当に頭が下がります。
その後も、「清水の瀬」で綱道を使っての引き上げを試してみました。岩の上、本当に人が一人歩けるだけの危険な道を使っての曳き船。本当にこんなところを16kmも歩いて舟を引っ張って上がっていたのだろうか、という気すらしてきます。
これが400年、曳き綱でこすられ続けて刻まれた「綱の跡」。
嵐山から少し上流に上がった所に「地獄橋」という小さな橋が綱道にかかっています。この橋、別に何ということのない、小さな橋なのですが、これから亀岡まで、地獄のような重労働が待っている、ということで船頭さんたちにそう呼ばれるようになったそうです。体力を使い果たしてしまっている上流ほど急流が多い保津峡、その言葉の意味がひしひしと伝わってきました。
地図をにらみながら、かつて曳き上げたルートを再確認。嵐山から亀岡まで、途中12回も川を渡って舟を曳き上げたそうですが、場所によっては綱道も消えていたり、川の流路も変わっていたりするため、航空写真や聞き取り調査の記録も付き合わせながらの調査でした。
たとえば、川を渡るのは、途中の流れが穏やかなところを使います。このとき、綱を引っ張る船頭さんも全員が舟に乗って手際よく川を渡ったそうです。
途中、ある岩にみんなの目が止まりました。下の2枚の写真を見比べてみてください。
岩を覆う木などは変わっていますが、岩や山の形から同じ場所だと思いませんか。
この写真は、今から102年前、1906年に保津川を訪れたハーバード・G・ポンティングという写真家が撮った曳き船の写真です。ポンティングは1910年のスコットによる南極探検隊で記録写真を撮ったことでも知られている写真家ですが、1901年から1906年にかけて日本を何度か訪れて、各地の写真を撮影していました。そしてその時の旅の様子を「In Lotus-Land Japan」(邦題:この世の楽園・日本)として1910年に出版しました。この本には、「保津川の急流」という一章があり、保津川の旅の記録が写真とともに描かれています。
今までにも急流を何回か下ったことがあるが、この川の美しさと滝を流れ下るときの興奮は、何度行っても決して飽きることのないほどすばらしいものだった。
こういう腕利きの男たちが、これらの死の落とし穴を避けようと腕を振るうありさまは、本当にすばらしい見ものであった。こんな場所で一瞬でも躊躇すれば、舟は流れに対して舷側を向けることになって転覆するか、あるいは物凄い勢いで岩にぶつかるだろう。
両側の崖は垂直に切り立って、荘厳な感じを受けるほどであった。何度も船頭に舟を止めるように命じて、いま流れつつあるこの美しい楽園の風光を心ゆくまでゆっくりと味わった。
そしてまた彼は、保津川を遡る舟旅にも出かけています。そう、曳き舟に乗せてもらっているのです!そのときの写真が、上の写真なのです。しかもこのときは彼を含めて11人の人を乗せての曳き舟だったのです。
練り戸では曳き手は四つん這いになって手と足で岩につかまって舟を引っ張ったが、激流が左右の舷側にまですれすれに上ってきた。渦巻く急流を遡って、こんなに大きくて重い舟を5人の男の力で引き上げるのは驚異的な業だとしか思えなかった。そこから轟々たる激流を見下ろすと、彼らの成し遂げた仕事がなお一層奇跡のように思えるのだった。
行楽客を舟に乗せて川を下る船頭たちは、みなその技術に熟練したものばかりで、見物客が死ぬような事故を一度も起こしたことがないのを誇りにしている。
そして最後に、こう結ばれています。
身軽さにおいても、機転のきくことにおいても、舟を操る技術においても、私は世界中でこれ以上優秀な人たちを見たことがない。極東の島国である日本は、海軍の要員としてこれほど優秀な人材を徴募できる限り、何ら恐れる必要はないだろう。
「英国人写真家の見た明治日本-この世の楽園・日本」 (講談社学術文庫) ハーバート・G. ポンティング、長岡祥三訳、講談社、2005。
彼は何度も保津川を訪れ、お気に入りの船頭との船旅を楽しみにしていたそうです。そしてまた、彼が見た保津川は、川の底の石まで透き通って見えたそうです。ベテランの船頭さんにお話を伺っても、昔は谷間で喉が渇いた時は、川の水を掬って飲んでいたそうです。しかし今、川の水は濁り、富栄養化も進んで藻が異常繁殖しています。そしてまた、たくさんのゴミ。
今日もたくさんのゴミを拾いました。かつて、といっても僅か100年前に「この世の楽園」とポンティングが評した保津川、でも“いま”の現実はこれなのです。何とかキレイにしたいなあ、と改めて思ったのでした。
9月の筏に続いて、木造船の復活、そして曳き舟の再現。こうした一つ一つの“挑戦”が、川と人が織りなしてきた歴史を私たちに実体験として教えてくれます。昔の人の気持ちそのままにはなれないかもしれませんが、私たちも自分たちで経験することで、また次の世代へと、私たちの地域が培ってきた歴史を伝えていけるのかな、と思いました。
新年10日には、いよいよ木造船の進水式が保津川下り乗船場対岸の舟の係留場で行われます。また一つ甦る保津川の歴史を、ぜひみなさんもご覧ください!
(H)
拝見しました・・・凄すぎますね・・・こんなに大変な事を先人はやっていたのですね。
新聞でも拝見し、船大工さんも京都新聞正月版に登場されていましたね!皆さんの活動が実を結びますように微力ながらお手伝いさせていただきます。
>naruさん
本当に、「信じられない!」というお仕事だと思いました。筏にしても木造船にしても、曳き舟にしても、いったん途絶えてしまうとそれでおしまいです。そうなってしまわないように、みなさんとともに頑張っていきたいなあ、と思います。定例清掃会にもぜひお越し下さい!
9/10の筏復活プロジェクトを見学させていただきました、間伐材研究所のいりえです。
元筏士の酒井さんから教えていただいた「曳き舟」に現在の船頭さんたちが挑戦されている事に驚きました[E:happy02]
みなさん、本当にステキです[E:lovely]
>いりちゃんさん
男の私から見ても、カッコええなあ!と思います。これぞ「オトコの仕事」というか。確かに曳船は、今の保津川下りにはまったく必要ないものかもしれませんが、こういう伝統を、みんなで受け継いでいく、そういうことに、単なる観光産業ではない、伝統産業としての意味があるように思います。