2009/02/04
「次世代へつなぐ南丹地域文化フォーラム」が開催されました
先月31日、南丹市園部町の国際交流会館で「次世代へつなぐ南丹地域文化フォーラム」が開催されました。フォーラムでは、昨年9月に約60年ぶりに復活した保津川の筏流しのプロジェクトを、亀岡市文化資料館の黒川館長を進行役に、関係者がそれぞれの立場から報告しました。
保津川(桂川)流域では丹波産の木材を京都や大阪に運搬するための方法として、1300年前から筏流しが行われていましたが、トラックや鉄道の発達により、60年前に姿を消してしまいました。
2007年8月20日に日吉ダムで行われた「天若湖アートプロジェクト2007」では、上流と下流をつなぐシンボルとして、筏を作ろうという試みが催され、元筏士の酒井さんや保津川下りの船頭を中心に3連の筏が作られました。ただ、このときは諸般の事情により陸上での展示にとどまったため、会場からは「筏は川に浮かべないと意味がない」という意見もありました。
また、昨年2月2日に行われた南丹地域文化フォーラムの「川でつなぐ地域の水文化」においても、元筏士の酒井さん、上田さんや資料館の関係者が参加し、天若湖での筏作りを振り返るとともに、これをつなげていかなければならないとのことで、同じく保津川の筏復活を目指しているプロジェクト保津川や南丹森のエコミュージアムなどの関係者を加えて、昨年5月に「保津川筏復活プロジェクト連絡協議会」が結成されました。
南丹森のエコミュージアムが取り組んだ「ひよし窯」の復活の意義も、かつて窯で焼かれた炭を筏や木造船に乗せて京都に運んでいた水運文化から見ると、保津川の筏復活につながっているのです。また、保津川や保津峡のゴミ問題に取り組む私たちプロジェクト保津川も、筏の復活によって人々の目を川に呼び戻したいという思いから、連絡協議会にかかわってきました。
連絡協議会では昨年9月10日の筏流し再現まで、酒井さん、上田さんへの聞き取り調査を何度も実施しました。その聞き取りでは、かつての筏流しのことだけではなく、上田さんが80歳の頃から、毎年夏に地元の保津小学校で子どもたちと一緒に筏を作っていたことも分かりました。
「もう50年以上も前のことですが、筏を作ったり流したりしたことは今でも絶対に忘れておりませんし、川の流れも今でも覚えています。保津川の筏の歴史を後世に、伝えていただく機会を与えてくださって、このことを私も喜んでいます」と、酒井さんはおっしゃっていました。
また、上田さんからは「後世に、こういう筏だったんだなあ、こうやっておられたんだなあということを覚えてもらうことが大変嬉しく思います。これをどうぞ、後世に、建築材は全部、山国(旧京北町)から京都、大阪へ運んでいたということを感じてもらったら大変けっこうかと思います。」というお話がありました。
実は、保津浜から山本浜まで再現された筏が流れた頃の前後に、旧京北町や八木町でも筏関連のイベントが行われていました。
このうち、京北の第一小学校のプールで筏を浮かべて遊ぶイベントを主導した元筏師の栗山さんは、「京北の筏の歴史は保津のそれよりも古く、京北の産業は林業であって、川の役割や人間と筏との関わりや歴史を知って守っていきたい」という思いから、小学校で筏の歴史や文化を教えているそうです。平成6年の平安京遷都1200年の際には同じく京北で筏流しが再現されていたことも報告されました。
NPO法人森林環境ネットワークの用澤さんからは、子どもたちに森林と川の関係や川に入って遊んでもらうことを目的に、筏作りをしたことが報告されました。
そのほかにも、最近復活した保津川木造船や曳き舟も紹介されました。今後の筏復活プロジェクトの方向について、桂川流域ネットワークの下村さんからは「黒田、京北、八木、亀岡などでいろんな動きがある中、現在は(ダムなどで)全部貫通して下ることは無理ですが、筏を通じて桂川がつながっていくのが目に見えるように思えます」というお話しがありました。
つまり筏そのものがいろんなものを繋いでいるのです。保津川の筏の歴史的背景を見ても、まさに京都の都市文化を支えていたのが上流域の自然であり、ものづくりの文化であることを、流域の人がもっともっと誇りにしてもいいのではないでしょうか。筏とは山と川を繋ぐもの、それから川と下流域の都市を繋ぐもの、そのものづくりの文化を乗せているものでもあります。
そうした川が結ぶ町や人との繋がりは、昭和20年ごろに筏流しが途絶えたと同時に、一旦途切れてしまいましたが、今こうして復活しつつあります。筏そのものが山と川と都市を繋ぐシンボルであると同時に、流域をも繋ぐシンボルとして生き返ろうとしているのです。そうした大きな力が保津川の筏流しにあるということに、心打たれました。
- なお、当日の様子は京都新聞の記事でも報じられています。
(N)