2010/02/18

「大堰川最后の筏師を囲んで」座談会に行ってきました。

Dscn3927

2月14日(日)、桂川クリーン大作戦のあと、午後から「大堰川最后の筏師を囲んで」座談会に行ってきました。大堰川(桂川の地域名)上流最后の筏師、栗山季夫さんの貴重な話を聞くことができました。

この座談会は、南丹市にある「丹波史談会」が主催する2月の例会で、当日は、熱心な方々約30名ほどが拝聴されました。

栗山季夫さんは、大正14年生まれの84歳!!!京北周山町在住で、昭和期に大堰川上流(南丹市日吉町以北)で筏流しをされていました。

上流部の筏流しの特徴は、川の水量が少ないため、川に堰(せき)を作り水をためて、一気に堰をはずして流れる水の勢い(鉄砲水)で筏を流します。また、筏の組み方も保津の筏士さんとは違って、木材の両末口に穴をあけ、ネソというマンサクの木を火であぶって捻じったものをロープ代わりに、穴を縫うように筏を組んだそうです。この筏は「メガチ筏」と呼ばれるもので、保津の「カン筏」より歴史の古いものです。

Dscn3933

メガチ筏の模型とネソ。

Dscn3935

目打斧。これで、木材に穴をあけていました。

栗山さんは、昭和15~19年くらいまで筏流しをされ、その後入隊し戦争に従事し、戦後帰国した時には筏流しはすでになかったそうです。戦前で京北町には実に約100名ほど!!の筏師さんがおられたそうで、当時の筏流しのにぎわいが想像されます。

栗山さんが当時のことを話されるとき、保津の筏士さんもそうでしたが、しきりにおっしゃっていたのが、冬の筏流しの過酷さです。

『まともな人間のする仕事とちゃう』

『親父がやってへんだら、やめとったな~』

9月15日~1月1日までは、主に川作といって、筏が通れるように川の工事をされていました。12月には雪が降り積もり、そこに足袋とわらじで入って作業する、想像を絶するものですね。

筏流しの日は、朝4:30から家を出て、上流の上黒田・灰屋口に約4~5時間かけて歩き、そこで筏を組みなおして、京北・周山まで流して一日を終え、次の日は日吉町の上世木まで、途中筏の上で握り飯や納豆餅を食べながら、筏を流していたそうです。2日間かけての筏流しでした。

極寒の中の仕事。しかし、寒いといって厚着をすることはありませんでした。なぜなら、厚着をすると溺れる危険があるから。いつもシャツに半纏だったそうだが、仕事中はあまり寒さを感じなかったそうです。感じなかったというか、当たり前のことだったのです。

Dscn3932

平成6年、平安建都1200年祭の時、京北町から筏流しを依頼され、筏流しを復活された経験もあり、また、今でも、地元の小学生の筏流しを教えられています。

会場には、平安建都1200年祭の時の筏流しの写真が展示されてました。

Dscn3947

座談会の後、直接、栗山さんとお話しする時間もありました。そして、今年、是非、保津川で昔ながらの「メガチ筏」を流したいと頼んでみると、「私ももうあんまり時間がないし、やるんやったら早い方がええな!」とおっしゃってくれました。

しかし、一つ問題があります。マンサクの木が、今ではほとんど生えていないそうです。当時は筏ばかりではなく、建築や農作業にもマンサクで作られた「ネソ」は重宝されて、京北には「ネソ屋」という製造・販売する商いが成立していたそうです。今は、山を手入れすることが少なくなり、マンサクは姿を消しつつあるそうです。

こんなところからも、山と川との関係性が見られます。山は山だけでは成立しません。山・川・まち・ひとがうまくリンクしてこそ、互いが維持されていくのではないでしょうか。そんなことを考えさせられた座談会でした。

丹波史談会の秋里さん、ご招待いただきまして誠にありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

さあ、今年、「メガチ筏」が保津川を下るのか?!乞うご期待!!

(追記)当日の様子が京都新聞で紹介されました。

20100215_kyotonp_ikada_hiyoshi

筏師「冬場の寒さ、修行のよう」 南丹で大堰川下り従事者講演会

P20100215000047_2

 「緩みにくく水にも強い」と丸太をつなぐ綱「ネソ」の特長を説明する栗山さん(南丹市日吉町保野田・同町生涯学習センター)

かつて木材を筏(いかだ)に組み大堰川を下って運んだ「筏師」が体験を語る講演会が14日、京都府南丹市日吉町保野田の同町生涯学習センターであり、参加者が筏流しの労苦に思いをはせた。

郷土史家らでつくる「丹波史談会」が2月の例会として企画し、会員を中心に約40人が参加した。

64年前まで日吉町以北の大堰川で筏流しに従事した栗山季夫さん(84)=京都市右京区京北=が講師を務めた。戦前、旧京北町に筏師は100人ほどいたとされるが、当時の様子を今語れるのは栗山さんだけという。

栗山さんは「長靴がなかったので冬場は本当に寒く、毎日が修行のようだった」と約5年間の筏師生活を振り返った。また、▽老ノ坂峠と愛宕山にちなみ、右を「おい」、左を「あたご」と呼んで筏を操った▽マンサクの木で作った綱「ネソ」で丸太をつないだ-などの逸話を紹介。参加者は「昼ご飯はどうやって食べたのか」「けがをした人はいなかったか」などと興味深げに質問していた。

京都新聞 2010年2月15日

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100215000047&genre=B1&area=K40

(K)

コメントを残す