2016/03/15

【再掲載】上田正昭京都大学名誉教授インタビュー

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プロジェクト保津川の設立当初から顧問としてご尽力いただいてきた上田正昭京都大学名誉教授が、2016年3月14日お亡くなりになりました。先生のご遺徳を偲び、2007年12月に収録した先生のインタビュー記事を改めてご紹介します。心よりご冥福をお祈りいたします。

上田先生は、日本古代史を中心に神話学・民俗学などの視点もまじえて、広く東アジア的な視野から歴史の研究を重ね、わが国の古代史研究の第一人者として、多くの業績を挙げてこられました。一方で研究生活の傍ら、さまざまな公職も勤められ、京都や亀岡の文化振興をはじめ、地域の発展に大きく貢献されてきました。さらには、小幡神社(亀岡市)の宮司というユニークな一面もお持ちで、その幅広い視野からの歴史観・世界観は、多くの人を魅了してやみません。

今回は、保津川と京都・丹波との歴史的な視点から、保津川への想いを語っていただきました。(聞き手:プロジェクト保津川 豊田知八)

 

日本海と保津川を結ぶ大構想

―昨年(2006年)は角倉了以による保津川開削400周年ということもあり、保津川のことや、水運の歴史など、いろいろな視点から川について考える機会がありました。長い歴史をもつ保津川、そして丹波と京都とのつながり、ということを知ることで、なぜ保津川をみんなの手で守らないといけないのか、ということが見えてくるのではないでしょうか。

上田先生 角倉家は嵯峨で土倉を営んでいて、了以自身も身近な保津川に小さなころから親しみを抱いていたのだと思います。了以とその息子の素庵は、保津川のほかにも大井川や木曽川の開削など、川と非常にかかわりの深い人生をその後送ることになりますが、小さな頃から親しんだ保津川が、その後の彼の人生に大きな影響を与えたのではないでしょうか。

彼は慶長19年(1614)に高瀬川も開削します。「高瀬舟」という名前も高瀬川にちなんだものと思っている人も多いようですが、実は岡山の和気川から浅瀬でも行き来できる底の浅い舟があることを知り、まず保津川に導入したんですね。2011年が高瀬川開削が始まった400周年ですが、そういう意味では、亀岡も非常に深い関係があるわけですから、これをきっかけに、川のことを広くみんなで考えるきっかけになればいいですね。

これからの保津川の環境保全も、保津川流域のみなさんが中心であることは言うまでもないのですが、周辺地域の協力がないと、上手く行きません。

あまり知られていませんが、なぜ角倉了以とその子の素庵がですね、単に丹波の物資を京都に運ぶだけであれば、南丹市の八木町から下流、嵐山までの大きな石を削ったり、川幅を拡げたりすればいいだけなのに、それよりももっと上流、(南丹市日吉町)世木、そこまでを視野に入れた開削事業をおこなったのでしょう?

これは私の仮説ですが、京都の北部を日本海に向かって流れる由良川と保津川とをつなごう、という構想を持っていたんじゃないか、と思うのです。保津川を、行ける所までは舟で物資を運び、それより上流は陸路を馬で運ぶ。

まさに、日本海と大阪湾を結ぶ、という非常にスケールの大きな構想で着手した、というように考えるべきなんですね。

-日本海との海運を視野にいれた構想?

そう。角倉了以・素庵親子が、日本海の海運も視野に入れて保津川の開削を行った、これは非常に大事なことだと思いますね。

当時、北国からの物資は、北前船で下関を回って大坂へ入って、そして京都にやってくる、それは物凄い遠回りしてくる訳ですわ。それを、大幅に短縮する、今で言えば物流の大変革ですよね。そういう大きな視野を、彼ら親子は持っていたと思いますね。

ですから保津川の保全についての下流のみなさんとの連帯も大事やし、それだけでなく上流の南丹市や京丹波町にかけての地域のみなさんにも、この問題を訴えていくことが、保津川開削のいわれから考えても非常に重要な意味があると思うんですね。

 

秦氏の京都開拓と保津川

-少し歴史をさかのぼると、秦氏という存在もまた、非常におもしろいと思うんですね、都が移された時にその秦氏がどういう役割を果たしたのか、保津川に対してどういう役割を果たしたのか、というのは非常に興味深い点でもあります。

そうですね。朝鮮半島南部の当時、新羅(しらぎ)と呼ばれていた国から日本へ渡ってきた集団のひとつが秦氏です。新羅の古い石碑に、6世紀のはじめに朝鮮半島の慶尚北道に波旦という地名があったことが記されています。ここが秦氏のルーツではないかと考えています。

その後、日本に渡ってきて、飛鳥時代、5世紀の後半の頃から葛野盆地、今の京都盆地の開発を始めたわけです。その頃に創建されたのが、おなじみの伏見稲荷大社で和銅4年(711)に秦伊呂巨(イロコ)によって創建された、と伝えられています。

そして、松尾大社がありますよね。これを作ったのがやっぱり秦氏でね。秦都理(トリ)が社を大宝元年(701)に作ったといわれています。ですから松尾大社は2001年に1300年祭をやっていますし、伏見稲荷大社は2011年に1300年祭を迎えます。ちょうど高瀬川開削400年とも重なる記念の年ですね。

ところで、京都には全国の国宝の約20%があるんです。日本中のどこの都市にも負けない。そんな数ある国宝の第1号の指定を受けているのが太秦・広隆寺の弥勒菩薩像なんですね。「弥勒菩薩半跏思惟像」(みろくぼさつはんかしいぞう)というのが正しい仏像のお名前で、飛鳥時代の作と伝えられています。この広隆寺の前身が葛野秦寺、葛野にあった秦氏の寺です。それが後に広隆寺となり、平安時代に場所も現在の位置に移りました。元々は、嵐電の白梅町の駅の辺りにあったことが発掘調査で見つかっています。

秦氏一族は保津川の流域に住んでいましたから、たびたび洪水に見舞われるわけです。そこで、彼らは葛野大堰を作りました。今でいう、灌漑や治水のための「ダム」で、京都の発展に大きな役割を果たします。天平時代には、すでに葛野大堰が存在し、機能を発揮していたわけですね。

そういうのを考えても、いかに秦氏というのが京都の発展に大きく貢献したかが分かりますね。

 

川は川だけで守れない

-秦氏は京都、桂川沿いに住んでいて、桂川の治水や灌漑を手がけたわけですね。その秦氏の足跡は、亀岡はじめ上流に点々とあります。彼らが上流を目指した、その保津川の価値とは何だったんでしょう?

それはやっぱり、水運を利用して上流の地域の人々と交流を図った、ということでしょう。松尾大社の御祭神は二柱あって、大山咋命(オオヤマクイノミコト)と市杵嶋姫(イチキシマヒメノミコト)なんですが、例えば亀岡市の大井神社は大山咋命が鯉に乗って上って来られたという言い伝えがあるんですね。ですので、今でも5月5日の端午の節句にも、この辺りの皆さんは、鯉のぼりを上げないでしょう。神の使いですよ、鯉はね。鯉こくなんかも召し上がらないと聞きます。

―その松尾の神様というのが秦氏であったということ。

秦氏がまつった神です。そしても一方の市杵島姫、こちらは九州の宗像大社に祀られている神様で海の神様なんですね。つまり松尾大社は山の神と海の神を祀っているわけです。

これは環境問題を考える時に象徴的だと思うんです。山が荒れますと保水力がなくなっていきますから川が洪水になる、そして栄養分も流れて来なくなります。だから漁民の皆さんが「森は海の恋人」やと、森と山と人間は一体だと古くからおっしゃってるのはまさにそのとおりなんです。

山が立派な山になるということは川が豊かになることです。川が豊かになるということは海が豊かになるということでもあります。山の豊な栄養分が、植物プランクトンをはぐくむのです。そして、豊な漁場が出来上がる。だから漁師さんが、山へ植林に行かれるんですよ。海を守るために上流の山へ木を植えに行く、これはまさにリサイクルの環境ですよ。

川は川だけで守ればいいというのは大間違い。

-下流が豊かな漁場と直結している場合でしたら、海の人と山の人というのは繋がりを作りやすいかもしれないと思いますが、保津川の場合はそうではなくて下流は大都市で工業地帯であり、どうしても上流のことに対して想いが届きにくい。

歴史の話をしますと長岡京がなぜ、たった10年で都でなくなったか、ということを考えてみてください。あるいはその前には、なぜ7代74年も続いた奈良の都を捨てて長岡の地へ移ったのか。これには大きな理由が2つありますね。

まず一つは、奈良時代の後半は南都仏教が物凄く勢力を持って、彼らが色々と政治に口出しをする状況になってきた。その都をやめる、ということになりました。事実、長岡京へは一切、お寺は移されていません。たいていはどこでも、都が移るとお寺も移っていくんですが。

そしてもう一点。平城京は川を持っていない都なんです。背後に木津川がありますが、その木津川が頼りなんです。ものすごく不便なんですね。それで川がある場所を探す。では、平城京の後の長岡京が何故、たった10年でダメになったかと言うと、淀川の下流に土砂が次から次へと滞積して、当時の摂津、今日でいう大阪港の機能が回復できなくなった。当時、摂津太夫をやっていたのが和気清麻呂ですが、彼が、もうこれはだめだ、と都を京都に移すことを進言します。そこには琵琶湖の大津との関係という意味もあった。

日本の都市の発展には、いかに川が大きな意味を持っているかというのことが、平城京から平安京への移り変わりを見れば分かるでしょう。だって、桓武さんの、たった1代の間に3回も都が変わるんですよ。みな水に関連があるわけです。

都市の形成と水というのはとても大事なことですね。

 

人を損てて己を益するな

―京都の川と言うと、今では鴨川というイメージがありますが、当時は物資の運搬等を考えると保津川の方が非常に大きな役割を果たしていたのではないでしょうか。

そうですね、保津川はやっぱり物資輸送の川としての役割が大きい。ちなみに保津川を観光目的で舟で下るというのは、実は慶長12年から始まっていたんですよ。一番最初にやったのは藤原惺窩、これは素庵の学問の先生です。徳川家康の学問指南役としても有名な儒学者の林羅山の先生でもある人です。

もう、素庵は大変な勉強家で、その上、江戸幕府との関係も深かった。素庵が保津川の開削に果たした役割は物凄く大きいんです。角倉家が始めた安南(現在のベトナム)貿易でも現地へ行ったのも了以ではなく、息子の素庵でした。

彼が外国との貿易にあたってその心得を記した「船中規約」に「自分の利益ばかりを求めてはならん」という言葉がありまして、原案は藤原惺窩が書いたのですけれども、これは素庵のすごい哲学ですよね。「凡そ回易のことは、有無を通じて以て人、己を利するなり。人を損てて己を益するには非ざるなり。」と、非常に高い倫理観を持っていたんですね。「自分の利益だけを考えてはならぬ」と。貿易とは、「こっちに有る物を無いところへやり、こっちの無いものを相手からもらう」ということですね。

―その素庵が、藤原惺窩を舟に乗せて保津川を下った。いわゆる観光ですか?

そう、舟遊びです。つまり、舟遊びとして保津川下りを最初にやったのは藤原惺窩です。記録の上では。慶長12年(1607)のことです。みなさんは明治以後に舟遊びが始まったと思っているけれどそれは間違いで、もう江戸時代には観光案内が一杯出ています。おそらく、漁師さんたちが金儲けにやっておられたんでしょうね。角倉家はその通行料を取るということで、ビジネスとして観光が成り立っていた。ほとんど知られていないけれど、江戸時代の初めに、嵐山だけではなく保津峡もすでに観光地だったんですよ。

京都や亀岡は、保津川のおかげで非常に水に恵まれた土地でした。だから農業が発達した。それから鮎をはじめとする漁業もあります。筏流しにかんしても、平安時代以前から盛んに行なわれていました。そんなふうに、暮らしに密着した川として、保津川が人々の生活を豊かにしてきたのは間違いないでしょう。

上田先生 もちろん、光があれば影の部分もあります。最近では少なくなりましたが、私が学生だった頃も、少し大雨が降ると、保津峡は狭いですから、川の水が逆流してね。亀岡駅に標識が残っていますが、亀岡はたびたび大洪水に見舞われました。私もその経験は何度もあります。

それでも、やはり山の恵みと水の恵み、今でいう景勝の地として地域が受けてきた恩恵は非常に大きいものです。日本各地にも景勝の地はありますけれど、屈指の、5本の指に入る保津峡の美しさというものが、大きな恩恵をもたらしてきたことは、間違いない。

神様が鯉に乗って上ってきたという話が、信仰の対象になっていることをみても、流域の人々に大きな恩恵をもたらしたということが表われていると思います。

―平安京にとって、保津川は不可欠な存在であったおかげで、上流の丹波も大きく栄えることになったということですね。

そうです。材木だけではなく、たとえば亀岡は平安京の瓦の一大生産地でもありました。その瓦も筏で運ばれていましたし、運搬手段があったからこそ農業もより発展した。当時は豆類がたくさん都に運ばれていたようですよ。今では高級品として知られている、丹波の黒豆や小豆も、保津川の恵みのひとつでしょう。

 

比較、グローカル、そして郷土愛

―ところが残念なことに、保津川はゴミの問題が深刻になっています。京都や亀岡という町の生命線、ルーツが汚れていくというのはどうにかできないのでしょうか、モラルに訴えるだけでいいのか、それとも他のことが必要なのでしょうか。

よく山紫水明という言葉が使われますが、山が清らかで豊であって、水が美しいと、これが日本の美の源泉ですよね。豊な山が周りにあって、そして保津川を中心に、たくさんの川が流れている。先ほども言いましたが、まさに山紫水明の、日本の中でも5本の指に入る、山と水の自然に恵まれた土地だと思いますね。それをまず住民が自覚しなければならない。

ところが、そのありがたさに気づいていない人が多すぎる。これは他の地域を知らないからなんですね。他の地域を見てくると、いかに自分の故郷が清らかであり豊かであるのかが分かるのですね。単なるお国自慢の郷土愛というのは、エゴイズムなんです。エゴイズムの自慢というのはもってのほかで、グローバルな比較によって、どこが優れてどこが他の地域より遅れているかということを発見することが大事なんですね。

常に「比較」という視点を持てば、山の豊さ、川の清らかさが、他の多くの都市と比較しても遜色ないことがわかります。ただ、それが自覚されていない。いかに自然が豊かでも、人の輪がなければ、景勝の地も守られないし、活かされない。まず、「比較」の上に立って、地域の住民が地域に誇りを持つことで、初めて郷土を愛する国民が生まれてくるのですね。

愛国心や郷土愛は悪いことでは全く無いのですが、愛するに値する郷土を作らなければどうして郷土愛が育ちますか?愛するに値する郷土、そして愛するに値する日本という国ができていなくて、愛国心が育つはずもない。そのためにも、まず愛するに値する郷土を作ることが大事ですね。

―私たちは自然が身近にありすぎて、それに気づいていないのかも知れません。子供たちが山や川で遊ぶ姿も見かけなくなりました。保津川は少し遠い川で大きい川、危ないから近寄るな、と。そうなると、ちょっとくらいゴミを捨てても見つからないだろう、となってしまう。京都を象徴する川でありながら、鴨川のような身近な川になっていないという気がするのですが、どうしたら保津川は身近な川になれるのでしょうか。

人々が「みずから水と親しむ」ということがないとダメでしょう。そのためにも、川の良さを知らなければ。お説教だけでは上手くいかないのではないでしょうかね。素晴らしい景観の中を、エンジンのない人力の舟で川を下る。そんな観光名所、世界中どこにもないですよ。そんな魅力が保津川にはいっぱいあります。

―歴史的にも保津川は平安京をつくった、いわば日本の歴史を造った川。その川を守っていくために、上流と下流、京都と丹波の人々が繋がっていくためには、どうすればいいのでしょう?

川には必ず上流と下流があります。川の環境の保全は、一ヶ所ではなく、上流下流の人々を含めて、保津川で言うならば、福知山、綾部、京丹波町、南丹市、亀岡市、京都市と、これらの街が手を取り合って、保津川の景観を守るというのを作るぐらいのスケールの大きい発想で取り組む必要があると思いますね。地域の住民は保津川の大切さを理解していますから、僕は出来ると思いますね。

かつて、角倉了以と素庵が、どうやって日本海から大阪湾までを結ぼうかと日夜検討した、そういう彼らのスケールの大きな視点を私たちも活かさなければならないと思います。

-グローバルな視点が必要と。

でも、単なるグローバルでは普遍性に欠ける。そうではなく、上流の人、中流の人、下流の人が、それぞれの地域に密着して考えることを「グローカル」というんですが、その視点がこれからの保津川に必要でしょう。

そういう意味で、皆さんの活動は期待できると思っています。

-本日はお忙しい中、ありがとうございました。

 

【上田正昭(うえだ・まさあき)氏 プロフィール】

1927年、兵庫県生まれ。京都大名誉教授、アジア史学会会長。京都府立高教諭を経て京都大教授に。その後、大阪女子大学長、京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長、島根県立古代出雲歴史博物館名誉館長などを歴任。2001年の新春宮中歌会始では召人も務める。亀岡市名誉市民。専門は古代日本・東アジア史。著書に「日本神話」「古代日本のこころとかたち」「古代日本の輝き」など多数。

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