2009/04/09

保津川さくら便り(11)

Dsc_0028_2

今日もまた、ぽかぽかと暖かい1日でしたね。今回の保津川さくら便りは、亀岡の保津川下り乗船場の桜をご紹介します。

Dsc_0002_3

保津川下りの乗船場のすぐ下流にある保津大橋の上からは、見事な桜並木が眺められます。この桜、実は保津川下りの歴史を語る上で大変大きな意味のある出来事を記念して植えられた桜なのです。

現在、日本では、この保津川の他にも山形県の最上川や熊本県の球磨川など、全部で14の観光川下りが営業を行っています。球磨川下りが明治40年代に始まっているほかは、昭和、それも戦後になってから始まったものであるのに対して、保津川下りは400年以上の歴史を持っています。そしてまた、経営形態も他の川下りが株式会社という形態をとっているのに対して、保津川下りだけは「企業組合」という独特の形を取っています。実はこのことと、乗船場の桜に大きな関係があるのです。

かつて京都の豪商・角倉了以が開いた保津川下りは、明治維新により角倉家が特権を失うと、保津や山本といった村々による村営となった時期がありました。しかし戦後になって、村の財政の悪化など様々な要因が重なり、京聯(現在の京阪京都交通)の傘下に入ります。そして京聯の経営悪化を受けて、昭和39年に、京阪神急行(現在の阪急電鉄)によって買収されます。

大手資本の傘下となって順風満帆な船出とみえましたが、昭和42年、阪急側が「雇用の近代化」という船頭の合理化を船頭組織である労働組合側に提案したことから「保津川労働争議」が起こります。

この労働争議に関しては、会社側にも船頭側にもそれぞれにもっともな理由があり、どちらか一方だけが正しい、悪い、とここで論じることはできません。ただ、幾度にもわたる労使交渉にも関わらず妥協点を見出すことが出来ず、組合側はついに昭和42年春には無期限ストライキに突入します。これに対して阪急側はロックアウトで対抗し、舟や施設を押さえてしまいます。

1年以上に渡るストライキとロックアウトの末、ついに船頭衆による「自主運航」によって保津川下りは営業を再開することになりました。このとき、船頭衆自らが、資金を持ち寄り新たに舟を建造し、また慣れない営業活動も行ったそうです。

Dsc_0052_2

そして、昭和44年秋、ついに阪急は撤退を発表し、翌45年、労働組合は企業組合の設立を決議し、現在に続く「保津川遊船企業組合」が誕生します。その時、大手資本からの独立と企業組合の設立を記念して船頭さんたちによって植えられたのが、今、乗船場で私たちの目を楽しませてくれる桜なのです。

実は今、この桜たちがピンチに瀕しています。保津川(桂川)改修工事の一環として、このあたりも堤防のかさ上げが行われることとなり、この桜も伐採されるかもしれないそうです。かつてこの土手の上には
優雅な松並木もあり、それは美しい風景だったといわれていますが、洪水により流されてしまいました。今、また桜並木が失われるようなことになると、また保津川沿いにならぶ木々が失われてしまいます。そうはならないように、ぜひとも移植などをお願いしたいものですね。

Dsc_0049

写真を撮っていて、ふと川面を見下ろすと、無数の桜の花びらが流れに浮かんでいました。桜の花が散って川面を流れていく様を「花筏」(はないかだ)といいます。その中を、「ぎぃ~、ぎぃ~」と櫂を引く音とともに進んでいく舟。うららかな春の保津川の風景でした。

(H)

コメントを残す