プロジェクト保津川

旧山陰本線トンネル・鉄橋群の調査を行いました(その2)

2010/02/10

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さて、清滝トンネルをあとにして、いよいよ保津川にかかる唯一の鉄橋、保津川橋梁を渡ります。

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さて、この鉄橋、今は2代目の鉄橋なのですが、では初代は、といいますと、実は今でも名古屋で現役で使われています。

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アメリカから輸入され、完成当初は東洋一の鉄橋といわれた保津川橋梁。その様子はたくさんの絵はがきにも描かれていたりします。静かな谷間に、突如姿を現した鉄橋を見て、当時の人たちは「文明開化」を一層実感したのでしょうか。

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この保津川橋梁の橋脚部分には、水位計が貼り付けられています。そこに描かれた赤い線、これは保津川の最高水位を示すもので、昭和34年の伊勢湾台風の時のものだそうです。水位は25mほど、想像もできません!

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さて、鉄橋を渡ってしばらく進んでいくと、線路際の山中に小さな神社が現れます。

大正11年(1922年)4月3日、先程の保津川橋梁の上で列車の脱線事故が起こりました。その列車にたまたま乗り合わせていた、京都鉄道の創設者、田中源太郎翁もこの事故で命を落とします。

消防団や船頭さんの捜索により、多くの乗客の遺体は引き上げられたものの、田中氏の遺体だけがどうしても見つからず、行方不明のままでした。そこで
事故現場へ祈祷師を呼び見てもらうと、鉄道のトンネルを掘る時に、地鎮祭もせずに、どんどん発破をかけて掘ったので、山の神さまがご立腹だ、という託宣が
出ました。そこで、事故現場の山を探してみると、仰せの通り“大山大神”と“大山姫大神”を祭る小さく粗末な祠がみつかりました。さっそく、それを“大山
弁天”として嵯峨野野宮神社(ののみやじんじゃ)にお祀りしたところ、あれだけ探してもみつからなかった田中氏の遺体が下流の嵐山で発見されます。

以来、鉄道関係者の手で、交通安全の神様として丁重にまつられているのです。列車では一瞬で通り過ぎてしまうのでほとんどのお客さんは気がつかないと思いますが、保津峡にはこんな歴史もあるのです。

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祠のあるところから上流を眺めた風景。奥に見える高い山は愛宕山です。本当に静かな、きれいな風景ですね。

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ちょうどお昼どき、保線作業にあたられていたみなさんが、正真正銘のトロッコに乗って嵐山駅に休憩に向かわれました。楽しそうですよね、乗せてもらいたいものです(笑)

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この保津峡に鉄道を敷設する際には、土砂崩れを防ぐために山腹にたくさんの擁壁が建設されました。その石組みもまた見事なものです。記録によれば、
廃城となっていた丹波亀山城の石垣を取り壊してこちらに使ったとか。今回の調査ではその石垣がどれなのかまでは分かりませんでしたが、いずれにしても昔の
人の丁寧な仕事ぶりには本当に感心させられます。

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さて、最後のトンネル、亀山トンネルを抜けて、トロッコ嵐山駅に到着しました。

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この亀山トンネルの京都側のポータルは、他のトンネルのレンガがイギリス積みなのに対して、唯一のフランス積みで作られています。最初に工事に取り
掛かった場所なので、フランス積みだったのか、あるいは起点であることが特別に意識されて装飾的にそうデザインされたのか、興味深いものです。ちなみに京
都府内の他の鉄道でもフランス積みのトンネルは非常に珍しいそうです。

4時間にわたっての調査はこれにて終了、改めて明治の日本の近代化を今に伝える、産業遺産としての保津峡のトンネル・鉄橋群と、そして大自然が織りなす景観、その2つが織りなす保津峡ならではの魅力を、ぜひ訪れたお客さんに知ってもらいたいなあ、と思いました。

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最後は懇親会も兼ねた昼食。冷え切った体をしゃぶしゃぶで温めましょう!

心地よい疲れとともに、これからどんなことを出来るかな、と夢が膨らむ一日でした。ご参加いただいたみなさま、そして調査にご協力いただいた嵯峨野観光鉄道、JR西日本のみなさま、ありがとうございました。

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