プロジェクト保津川

筏復活に向けての河況調査が再び新聞記事に掲載されました。

2009/06/24

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先日、5月27日に行われた保津川の筏航路の河況調査。

今日(6月24日付)の京都新聞・丹波版に「保津川筏復活プロジェクト連絡協議会」のメンバーである亀岡市文化資料館の黒川孝宏館長による河況調査の記事が掲載されました。

筏復活に向け水路調査(亀岡市) 流域文化や歴史、後世に

去る5月27日午後、「出発します!」の掛け声とともに、亀岡・南丹市境の上桂統合堰(旧寅天堰)より約500メートル下流の水辺から、2艘のラフティングボートが川面へ漕ぎ出た。

「保津川筏復活プロジェクト連絡協議会」のメンバーである府南丹広域振興局が中心となって企画し、同協議会に参加しているNPO・市民団体、大学・行政関係者がスタッフとしてボート班(9人)と地上班(3人)に分かれ、保津橋まで約7キロの河川調査の開始である。同協議会は昨年9月、約60年ぶりに保津橋から山本浜までの筏流しを再現した。

今回の調査は、昨年の筏復活を上流域にもつなげようと、筏などが実際に下れるのか。その水路(みと)の現存状況の把握などのために実施された。水深や川幅、流れの速さや岩などの障害物の有無を調査した。「水量が少なく浅いので、降りてボートを引っ張って下さい」「岩や旧井堰の基底ブロックの破片がゴロゴロしていて、とてもじゃないけど筏は通れないぞ」とメンバーの声が響いた。

調査を終了して、宇津根橋より上流には、筏流しの困難な場所が数か所あったものの、同橋から下流は筏流しが十分可能なことが確認できた。筏は単なる過去の遺産ではなく、今後は上・中・下流域で、筏を通じて流域文化・歴史を後世に伝える契機とし、かつ森林資源の活用、環境にやさしい材木という付加価値を持たせる手段として「平成の筏流し」へと発展させたいと考えている。 (かっぱ研究会 黒川孝宏)

京都新聞 2009年6月24日朝刊

私も実際に当日参加(写真:右のボートの先頭(笑))しましたが、今はなき旧堰跡は石や砂利が堆積し、とても筏流しをできる状態ではありませんでした。しかし、ここまでかつての井堰の影響が色濃く残っているとは想像すらしていませんでした。

今の上桂統合堰は昭和38年にできたもので、下流の井堰を統合して作られたものです。昭和34(1959)年頃の下流の井堰を見てみると、「寅天堰」「馬路堰」「江川堰」「神田堰」「堀越堰」「牡丹餅堰」「上中島堰」と7つの井堰がありました。そして昭和34年8月13日の「口丹波水害」と9月25日の「伊勢湾台風」といった度重なる水害により7つの井堰は大被害を受け、上桂統合堰建設へとつながるのです。

これらの井堰の跡には、時にはコンクリート・ブロックの破片が散乱したり、杭がむき出しになったようなところもあり、先人たちの川との共生の歴史の一端に触れることができます。少し川面に出れば先人の息吹きが聞こえてくる、そんな気がしました。

また、筏流しが行われていた戦後しばらくまでは、各井堰には筏流しのための「筏道」が設置されていたそうです。農繁期には田圃に水を取り込み、農閑期には、筏や舟が行き来してする、保津川は流域住民の生活の根底を支える「大動脈」だったのです。

一見、今の保津川では上流から下流までを通じる筏流しが無理なように思えますが、私にとってはそれは至極当たり前の話のように思えます。実際、現在でも、保津川下りの舟の航路は、船頭衆の力によって常に守られています。大雨の後のように川底が変動する度に、水路工事が行なわれているのです。この作業は、船頭衆の間では「川作」と呼ばれています。

かつて、筏流しが行われた頃も、盛んに「川作」が流域住民の手によって行われていたそうです。

私の個人的な想いとしては、現在のこれらの悪条件にめげずに、船頭の技術と経験をもって、いつの日か、今回、河川調査をした場所に筏を流してみたいと思っています。

「不可能という言葉のなかに可能という字がある限り、可能性はある」のではないか?!

私は、楽天家であり、夢想家である。(笑)

(K)

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